ブリヂストン美術館は、ただいま長期休館中です。

創設者・石橋正二郎

石橋正二郎と日本近代洋画コレクションの成り立ち

石橋正二郎は、1889(明治22)年に福岡県久留米市に生まれました。17歳で家業の仕立屋を継いだ後、ゴムを用いた地下足袋の商品化に成功、やがて自動車タイヤに着目します。1931(昭和6)年、姓をもじった社名のブリッヂストンタイヤ株式会社(現・株式会社ブリヂストン)を創立、後に東京に移転しました。

本格的に絵画収集を始めるきっかけとなったのは、正二郎の高等小学校時代の図画教師だった洋画家・坂本繁二郎との再会でした。若くして夭折した同郷の画家・青木繁の作品の散逸を惜しんだ坂本は、正二郎に青木の作品を集めて美術館をつくってほしいと語ったといいます。その言葉に感じ入った正二郎は、青木を中心として日本近代洋画の収集を始め、およそ10年間で《海の幸》など青木の代表作を購入、コレクションを形成していきました。

青木、坂本に加え、正二郎のコレクションの中で重要な位置をしめる画家が藤島武二です。個展で作品を気に入り購入した正二郎は、藤島と親しく交友し、画家が保管していたイタリア時代の作品15点を一括して譲り受けています。当初から美術館の創設を考えていた正二郎に、老画家から愛蔵品が託されたのでした。

開館年の1952(昭和27)年は、サンフランシスコ条約が発効され、戦後復興期にあった日本がようやく主権を取り戻した年でした。以後60年以上にわたって活動を続けてきた国内有数の歴史を誇る美術館ですが、創設者の石橋正二郎は、すでに戦前から絵画収集をスタートさせていたのです。

青木繁《海の幸》1904年 石橋財団石橋美術館所蔵

青木繁《海の幸》1904年 石橋財団石橋美術館所蔵

《黒扇》を囲む石橋幹一郎、石橋正二郎、藤島武二、岩佐新(右から)

《黒扇》を囲む石橋幹一郎、石橋正二郎、藤島武二、岩佐新(右から)

戦後の西洋美術コレクションと都心型美術館の創立

石橋正二郎は、「青木や藤島などの洋画家たちの作品と、彼らがお手本としたフランスの画家たちの作品を一緒に並べたら光彩を放つだろう」と語り、第二次大戦後の社会の変動期に売りに出された、戦前来の西洋美術から精力的に購入を行います。「明るい絵が好き」で、とりわけ印象派を好み、自身の審美眼を活かして、質の高い作品を収集していきました。同時に、復興期に優れた美術品の海外流出をくい止める役を果たすことにもなりました。

当館を代表するセザンヌの《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》は、原三渓の子息・善一郎が、白樺派が建設を夢見た「白樺美術館」のために戦前のパリで購入した作品です。このように正二郎は国内にある西洋絵画を収集し、印象派をはじめ19世紀から20世紀初頭のフランス絵画を中心に、各画家の代表作を含む良質のコレクションをつくりあげたのでした。

1950(昭和25)年、初渡米した際、都心のビルにあったニューヨーク近代美術館に強い感銘を受けた正二郎。そこで東京・京橋に建設中の本社ビル2階を急きょ美術館として、自らのコレクションを一般公開することを決意します。1952(昭和27)年1月、ブリヂストン美術館は開館しました。

「好きな絵を選んで買うのが何よりも楽しみであるが、もとよりこのような名品は個人で秘蔵すべきでなく、美術館を設け、文化の向上に寄与することがかねての念願であった」と言う正二郎は、美術館を私物化することなく、4年後には財団法人石橋財団を設立。コレクションの大半をこれに寄付し、館の管理運営を委ねました。同年、石橋美術館も創設し、郷里久留米市に寄贈しました。企業の経営者として卓越した力を持つ傍ら、美術館館長としても、公共性に対し非常に優れた意識をもつ指導者だったと言えるでしょう。

ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》1904-06年頃

ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》1904-06年頃

石橋 正ニ郎

石橋 正ニ郎 1889年〜1976年
石橋財団 創設者について